剣道でなぜ奇声を発するのか?について答えます!【盲点】

大声を出す人 剣道
剣道具職人のいる店 剣道防具工房「源」

 

こんにちは。

私は剣道ブロガーのKENDO KAWANOと申します。

脱サラして剣道ブロガー兼Youtuber(現在準備中)に転身しました。

詳しくはプロフィールをご覧ください。

 

 

今回は、剣道でなぜ奇声を発するのか?

について、取り上げていきます。

 

今回の記事は、剣道経験者にとっては、日々当たり前のように出している発声が、未経験の人や初心者の人から見れば、「なぜあのような奇声(大声)を発する必要があるんだ?」と不思議に思うという点から、「剣道家が奇声を発する理由」について解説していきます。

我々剣道家にとっては、当たり前すぎて、逆にあまり考えたことがない人も多いのではないでしょうか?そこが盲点であり、剣道をより多くの人に知ってもらうためには、このような疑問に丁寧に答えていく必要があると思いますので、そのあたりを念頭にこの記事を作成しました。

 

 

 

 

 

剣道でなぜ奇声を発するのかについて答えます

 はじめに結論として、シンプルに答えます。

 剣道の本質だから

 です。

 しかしこれでは、わかるようでわからないので、3つに分けて解説します。

①そもそも剣道とはなにか?

②異常な精神状態を再現する

③未熟者ゆえ奇声を発する

そもそも剣道とはなにか?

 そもそも剣道とは何か?という問の答えをを知るためには、全日本剣道連盟の見解を知ることが良いでしょう。全剣連のHPには「剣道の歴史」という項があり、以下のように記載されています。(部分的に抜粋)

 

剣道の歴史を遡るとき、欠くことのできない基本的な段階がいくつかある。
その源は日本刀の出現である。

 

室町幕府(1392~1573)の後半、応仁の乱が始まってから約100年間、天下は乱れた。この頃に剣術の各流派が相次いで成立

新陰流や一刀流などの諸流派に統合されて後世まで継承されている。

 

江戸幕府(1603~1867)の開府以後、平和な時代が訪れるに従い、剣術は人を殺す技術から武士としての人間形成を目指す「活人剣(かつにんけん)」へと昇華

長沼は正徳年間(1711~1715)に剣道具(防具)を開発し、竹刀で打突し合う「打込み稽古法」を確立した。これが今日の剣道の直接的な源(みなもと)である。

 

明治28年(1895)には、剣術をはじめとする武術の振興を図る全国組織として大日本武徳会が設立された。

 

大正元年(1912)には剣道と言う言葉が使われた「大日本帝国剣道形(のち「日本剣道形」となる)」が制定された。流派を統合することにより日本刀による技と心を後世に継承すると共に、竹刀打ち剣道の普及による手の内の乱れや、刃筋を無視した打突を正した。竹刀はあくまでも日本刀の替りであるという考え方が生まれ、大正8年、西久保弘道は「武」本来の目的に適合した武道および剣道に名称を統一した。

 

昭和27年(1952)独立回復後、全日本剣道連盟が結成されるとともに甦った。

 

 また全剣連は、昭和50年に「剣道の理念」を策定し、以下のように定められました。

剣道は剣の理法の修錬による人間形成の道である

 https://www.kendo.or.jp/knowledge/より抜粋

 

 以上、特に大事なところだけを抜粋しましたが、これを見ると大まかな剣道の歴史がつかめるかと思います。剣道の起源については、もっと昔の古代にさかのぼり、青銅器や鉄器の出現とともに剣道(剣道の起源である武(舞))が始まったという見解もありますが、そこまでの言及はここではいたしません。

 まとめると、

 (平安)反りと鎬のある日本刀の出現

(鎌倉)初の武家政権

(室町~戦国)各流派が成立

→(江戸)活人剣へ昇華、竹刀と剣道具による打ち込み稽古法

→(明治)大日本武徳会設立

→(大正)大日本帝国剣道形(のちの日本剣道形)制定、流派の統一、剣道に名称統一

→(昭和)剣道の理念策定→現在

 という感じです。

 ご覧になればわかる通り、剣道の成立には、「日本刀」と「武士」の出現とが非常に大きく影響しています。

 剣道の起源は「武士」による「日本刀」をつかった「剣術」である。

 と言えます。

 では、日本刀による剣術(真剣勝負)とは一体どのようなものなのでしょうか?現代に生きる我々には、およそ想像しがたいものですよね。そのような我々の想像を助けるものが書物です。時代小説や歴史の文献において、剣豪の決闘や道場破りの詳細が語られていることがあります。私も過去にそのような書物を読み自分なりに想像を膨らませてみたことがあります。

 文献の詳細を思い出せないので、正確に紹介できないことは申し訳ないのですが、あらましはこんな感じです。

「江戸の末期に、町道場で行われた仕合」

「真剣ではないが、木刀による素面素小手の勝負」

「真剣でなくても、急所に当たれば死を覚悟しなければならない」

「あまりの緊迫感に互いに一太刀が出ない」

「額に汗がにじむ」

「勝負をかけた一太刀を華麗にかわし打ち返す」

「勝負あり」

 確か、このような話だったと記憶しています。この話では日本刀は使っていませんが、しかしそれでもなお、「死」・「生命の危機」というものを感じて、にわかには攻撃できないというわけです。ましてや、これが日本刀であったならば、ますます緊迫感が増すことは自明の理です。

 つまり、「一撃で生死を決する」のが「日本刀による真剣勝負」ということが言えると思います。

 さらに、こういった短歌もあります。

 「切り結ぶ 太刀の下こそ地獄なれ 只踏み込め 神妙の剣」        柳生石舟斎

 宮本武蔵の作と言われることもあるそうですが、「相手と一足一刀の間合いで切り結んだその空間こそが生きるか死ぬかを決める地獄の空間である。覚悟を決めて一太刀放てばあとは自分の意志とは離れ天命が勝負を決するであろう。」のような解釈でよいと思います。(「只踏み込め~」の部分は「踏み込んだなら そこは極楽」など諸説あり)

 現代の剣道の世界でも「初太刀一本」とよく言いますが、日本刀の真剣勝負とは正に「初太刀一本」であり、「二本目」という概念は基本的にはないのです。

 つまり、何が言いたいかといえば、剣道の起源が「剣術」にあるのだとすれば、剣道においても「一撃必殺」という理念は絶対に残しておかなければならないということになります。これが、剣道で「初太刀一本」を大切にしなさいと言われる所以です。

 剣道は「観念のスポーツ」であるというのが私の持論なのですが、どういうことかといえば、「実際にはそうでなくても、そのつもりでやりなさい」というのが剣道というものだと思うのです。つまり、「竹刀では生死は分かれないが、そのぐらいの気迫でやりなさい」という観念で相手と相対するのが剣道です。

 

異常な精神状態を再現する

 ここまでくれば、あとの解説は単純です。

 上の項で説明した通り、剣道は「日本刀による真剣勝負」を「竹刀」によって行うものです。それは、生死を分ける戦いを目の前の相手と繰り広げるということです。

 それでは、我々はそのような「生死を分ける戦い」をした経験があるのでしょうか?

 答えは、ノーです。よね?

 現代では「果し合い」とか「仇討ち」とかそういったことはありえないし、むしろ日本刀を所持しているだけで捕まってしまいますから、人を斬るなどという経験はするわけがないのです。

 したがって、その経験したことのない、しかも想像しただけで「異常であろう精神状態」を剣道具を身にまとって表現しなければならないのです。手掛かりは自分の想像力しかないのです。

 そうすれば、自ずとどのような気迫で相手と相対するべきか?という答えが出てくるように思います。「異常な精神状態」を表現するには、「異常な気迫」つまり「奇声」とも受け取られる発声をする必要に迫られるのです。

 他人はいざ知らず、少なからず私はそのような気持ちで発声をしています。特に、自分より上手の方にかかっていく際は、本当に頭が狂うかのごとく奇声を発し、本当に命を取ってやろうというぐらいの気持ちで打ち込んでいきます。

 実際に私の先輩や後輩もそうでしたし、学生時代に参加した警視庁の稽古やその他いろいろな場所でも皆さんそのような気持ちでやっておられるのだと、私には感じました。

 したがって、剣道家には、「奇声を発せずにはいられない、やむにやまれぬ事情がある」というわけです。

 

未熟者ゆえ奇声を発する

 ここで、強調するべき話があります。先ほど、「剣道家には奇声を発する事情がある」といったわけですが、それは、「未熟者ゆえ奇声を発する」という側面があることを知っておかなければなりません。

 昭和の剣聖と言われた「持田盛二」先生は、その遺訓の中で、「まず技に習熟し、次に気を練り、更に間合いを工夫して、最後は案山子のようにただ立っておればよい。」とおっしゃられました。

 技を習得して、気持ちをつくり、間合いに明るくなったら、最後は立っているだけでよい。というのです。これは名人だからこそ言える言葉ですが、本当に習熟したものにとっては気迫というものは内面から出るものであって、「奇声」など発する必要がないのかもしれません。

 持田先生は、「自分の心の鏡に相手を映してみなさい。相手の動きがよく見える」ともおっしゃられたそうです。「明鏡止水」ですね。名人というのか、達人というのか、極めた方々はまた、違う景色を見ていらっしゃるということです。

 我々は未熟であるがゆえに、日々奇声を発し、自分を鼓舞して、真剣勝負さながらの精神状態を追い求め稽古することが求められます。

 その先の先に、先人の到達した境地が待っています。

まとめ

 今回は、

剣道でなぜ奇声を発するのか?

 について解説していきました。

 ポイントは、①そもそも剣道とはなにか?、②異常な精神状態を再現する、③未熟者ゆえ奇声を発するです。冒頭でも書きましたが、剣道をする我々にとっては、半ば自動的に、当たり前に「奇声」を発します。ところが、未経験の方からすれば、これほど不思議で珍しいこともない現象に映るということを忘れないでください。そのような方々の疑問に正確に答え、日本の伝統文化である剣道を正しく理解してもらうために、今回このような記事を書きました。

 また、剣道家の方々も、この機会に、「剣道と気迫」についてもう一度考えてみるのも良いのではないでしょうか?

今回も最後まで読んでくださり、ありがとうございます。これからも良質の記事を作成してまいります。

 それでは。

 

剣道具職人のいる店 剣道防具工房「源」

剣道
スポンサーリンク
シェアする
kendokawanoをフォローする
KENDO KAWANO(ケンドーカワノ)ブログ

コメント

タイトルとURLをコピーしました