こんにちは。
私は剣道ブロガーのKENDO KAWANOと申します。
脱サラして剣道ブロガー兼YouTuber(現在準備中)に転身しました。
詳しくはプロフィールをご覧ください。
今回は、
「大学剣道部恩師との思い出」
について、取り上げていきます。
剣道具職人のいる店 剣道防具工房「源」
恩師との思い出
私は九州の田舎出身で、大学進学を機に上京しました。大学を選んだ理由も、剣道も強く学校的にもまずまず有名ということだけが理由で、それ以外に特段こだわりがあったわけではありませんでした。そんなわけでその後私の母校になる大学の剣道部のことについても、雑誌などでたまに見る有名選手が何名かいるなぁというぐらいの知識しかなく、詳しいことは何一つ知りませんでした。
ですから、私が恩師のことを知ったのは恥ずかしながら大学入学後のことであり、そこから稽古やその他の活動を通じて様々なことを勉強させていただくことができました。
※↓恩師との出会いについては別記事で触れていますので、よかったらご覧ください↓
剣道小ネタ【正師を得ざれば学ばざるに如かず・剣道は老人が人に感銘を与えるスポーツ】
上の別記事でも書きましたが、母校剣道部の恩師は実は大変高名な先生だったのです。田舎者の少年剣士だった私は、はじめは名前を聞いてもピンと来ていなかったのですがとにかくド偉い先生だったのです。
名前を聞いてもわからないし、しかも当時すでに80歳を超えていらしたので見た目は完全におじいさんです。しかしそんな恩師はたちまち私を虜にしてしまいました。先生の生き方や考え方、剣道に対する造詣の深さ、そしてその眼差しが否応なしに私を先生に夢中にさせました。
ひとつのエピソードを紹介すると、先生は当時電車で大学道場までお越しでしたが、その車中で先生は座席には絶対に座りませんでした。ご自宅から道場まではそんなに近くはなかったと認識しているので、最低でも30分ほどはずっと立ったままで毎日電車に揺られて来られていたのだと想像します。ご本人曰く「修行だ」とおっしゃっていたように思いますが、ご高齢であるにもかかわらずかくしゃくとした様はとてもまぶしく感じました。※しかも先生は前年に大病を患われて、私が入学したときは回復されたばかりの状況だと聞いていました。
そんな先生との思い出の中で、今回は私の恥ずかしい思い出話を書いていこうと思います。
ある日、私は数名の部員と授業終わりに最寄駅から道場へ向かっていました(私の母校は本学と道場のあるキャンパスが異なっていたので、授業が終わると道場のあるキャンパスまで電車で移動して行っていました)。すると駅から大学構内へ向かう道中、20メートルほど前方に恩師の姿を発見しました。
私たちは思わず目を見合わせ、先生に追いつかないようにそろりそろりと距離を保ったまま道場まで歩いていきました。本来であれば、早足で近づいていき挨拶でもするべきだったのでしょうが、当時の我々はまだまだ子どもで、先生が恐い(でも、本当に恐かったのです(-_-;)稽古のときの先生は本当に鬼のようでした)という高校生のような発想で事なきを得る道を選んだのです。
そうやって私たちは、何事もなかったように道場に到着し、何事もなかったように稽古に参加しました。先生もまた、何事もなかったように指導してくださいました(もちろん、その日も稽古は非常にきつかったです。素振りと切り返しと区分稽古地獄でした…(-_-;))し、稽古が終わるころには稽古前に起こった出来事など私たちはとっくに忘れていました。
稽古が終わると、長い静坐のあと先生の講話があります。先生が口を開きます。
「今日は道場に来る途中に何名か僕の後ろを歩いている者がいたな。君たちはそれじゃあいかんぞ。挨拶でもして、荷物をお持ちしますということぐらい言えなけりゃあいけない。」
微笑みの中に、鋭さと厳しさのある表情でそのような言葉をおっしゃいました。私は心の中で「ドキッ」としました。先生は我々のことなどお見通しだったのです。私は、「恥ずかしい」という思いと同時に先生の言葉を頭の中で反芻しました。よく考えたら、先生の言葉は大変な意味が込められた言葉だと感じました。「挨拶をしなさい」はまだしも、「荷物を持ちなさい」などという言葉は易々と言えるものではないのではないでしょうか。今の時代ならば、捉え方によっては「パワハラ」です。だけど、先生は学生との信頼関係の中で、またその包み込むような語り口調の中で、「荷物をお持ちしますということぐらい言いなさい」という言葉を通じて、剣道人・社会人としてのあり様について教えてくださったのだと感じました。
現に我々の中で、そのことについて不平不満を言うものなどいなければ、先生のことを悪く言うものなど全くいませんでした。我々もまた、先生に対して全幅の信頼を寄せ、先生の指導を少しでも吸収しようとしていたのだと思います。
さて、こんなエピソードが大学生の頃にあったわけですが、実はその後にこのエピソードが役に立ったと感じることができる出来事がありましたので紹介します。
大学を卒業すると私は故郷の九州へ帰りました。故郷へ帰ると、県剣道連盟主催の稽古会などにも参加するようになりました。連盟の稽古会では、県内の八段の先生方が元立ちをしてくださり、下々のものがかかっていくという指導稽古が行われます。若かった私は、シャカリキになって八段の先生方に片っ端からかかっていきました。それは他の若手の剣友も同じことです。稽古が終わると、全体での挨拶があって解散となりますが、指導稽古をいただいているわけですから、当然八段の先生方の剣道具を片付けたり、もしくは会場の後片付けを手伝ったりという作業をしなければなりません。私は、自分なりにキビキビと動きお手伝いをしていたつもりですが、なんと他の若手の剣友は何もしていないのです。動いているのは警察官の若手だけで、他の者はそそくさと自分の片付けをやっているのです。私は、「それはないだろう」と思いつつも、逆に、「自分は先生のあの時の言葉があったからこういう風にできているのかもしれない」と思いました。
ささいなことかもしれませんが、剣道人としてこういった振る舞いができるかできないかということは長い目で見て必ず自分に返ってくるものだと感じています。あの時先生からあの言葉をいただいていたおかげで、私は「公の精神」を少し身につけることができたのではないかと思います。本当に先生の言葉は偉大だと感じる瞬間でした。
今回は、恩師との思い出ということで、エピソード記事という形になりました。先生は本当に厳しかったですが、時に優しく、学生を包み込む器の大きさを常々感じていました。そんな偉大で素敵な先生との思い出を多くの方にシェアしたいと思って記事を書いた次第です。また折に触れてこういった記事も書いていこうと思いますので、よかったら読んでくれると嬉しいです。
では、今回はここまでです。それでは。
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