剣道の昇段審査不要論者へ物申す!

昇段審査の会場 剣道

 

こんにちは。

私は剣道ブロガーのKENDO KAWANOと申します。

脱サラして剣道ブロガー兼YouTuber(現在準備中)に転身しました。

詳しくはプロフィールをご覧ください。

 

 

今回は、

「剣道の昇段審査不要論者へ物申す

というテーマを取り上げていきます。

 

 

剣道具職人のいる店 剣道防具工房「源」

 

剣道の昇段審査不要論者へ物申す

 いきなりですが、皆さん昇段審査を受審していますか??

 かくいう私も、30代に入るまでは昇段審査というものに対しては否定的な見方をしていました。よく考えたら理由といえる理由などなかったのですが、当時は「段位」だの「称号」だのというものが単なる「地位」や「名誉」にしか見えなくて、「そんなものいらない」と考えていたのでした。

 ある意味ではその考え方も間違ってはいないのかもしれませんが、今では違う見方をするようになりました。今回記事では、私なりに昇段審査が必要(有用)な理由について書いていきたいと思います。

 項目は2つです。

 ・極めて客観的な尺度

 ・本気 対 本気

 ・弱い自分だからこそ必要

 順に解説します。

 

極めて客観的な尺度

 まず一つ目の理由としては、昇段審査は「極めて客観的」な自分の実力を測る尺度だということです。

 皆さんもご存知の通り、昇段審査は名前や所属などを一切公表せずに実施されるためほぼ「いかさま」や「ひいき」はないと言ってよいと思います。特に最近ではインターネットの普及で悪い噂はすぐに広まってしまいますので、「不正」などまずないと思ってよいでしょう。

 それを前提とすると、自分の立ち合いを複数の公平な立場の、しかも熟練の剣道家の先生方が評価してくれるというシステムは非常に素晴らしいと思えてきます。自分の実力が相対的に見て受審した段位にふさわしいのかどうかを正当に評価されるシステムなのです。

 だとすれば、結果として現れた合否はおそらく納得できるものでしょうし、いかなる結果になろうとも自分の中に受け入れて次につなげることができます。

 そう考えると、昇段審査に向けて「努力する」ということに多大なる「価値」が生まれてきます。

 剣道の審査ですから、当然答えはなく、しかも技術的・体力的観点以外にも、着装や礼法といった振る舞いにまで目を配る必要があるのです。したがって、審査から次の審査へ向けた日々は剣道家にとって本当の意味での修行となってくるのです。

 「もしかしてこういう所が足りなかったのか?」や「日頃からこういう癖をつけておこう!」など、ある意味悶々とした日々を過ごしながら、師や先輩にアドバイスを求め、自問自答しながら成長していくのです。

 そういった意味で、昇段審査は極めて客観的な自分の実力を測る尺度であり、だからこそ審査という「目標」に向かって努力する姿勢やその日々には多大な「価値」があると言えます。

本気 対 本気

 二つ目の理由として、審査を受ける全ての人が「本気」で相手に対峙するという点が挙げられます。

 先ほどの項で説明した通り、昇段審査へ挑む日々というのはまさに修行です。求める結果を得たいのであれば、努力と「多少の犠牲」が必要になるでしょう。

 例えば、娯楽の時間を削って稽古やトレーニングにあてる人もいるでしょう。また、家族との時間を削らなければならない人、食事制限をしなければならない人、お酒を我慢しなければならない人もいるでしょう。

 そういった犠牲と努力の上に昇段審査を受審するのですから、それは本気で受審するはずです。

 また違う観点からも本気度が伺えます。例えば、九州から東京の審査を受審しようとした場合、往復の乗り物代と宿泊費、審査料を合わせると10万円はくだりません。

 下世話な話ですが、現実的にこのような大金を払って受審する昇段審査に本気を出さない人などいるはずもありません

 特に全国審査(六段以上)の場合、そのようなバックグラウンドを持った大人同士が、本気で対峙し合うことになるのです。いやが上にも緊張感が走りますし、絶対に良い立ち合いがしたいと切望するはずです。それも昇段審査には良い意味でも悪い意味でも小細工は存在しません。本当にピュアな剣先の攻め合いや気位がメインになってきます。それこそが剣道の醍醐味です。

 普段の稽古でも、「良い稽古」はできますが、やはり本番は格別だと私は思います。

 「失敗は許されない」・「背負っているモノが違う」・「小細工は一切なし」という状況だからこそ味わえない独特の感覚を味わうことができます。(※試合も似たような状況ではありますが、大人になるとそんなに頻繁に試合に出場する機会はありませんよね(-_-;))

 その審査を経験することが、そのまま自分の修行の肥しとなっていくのです。そう考えたとき、本気で相手と対峙することの重要性が改めて認識されます。

 

弱い自分だからこそ必要

 さて、今まで二つの理由を挙げて、昇段審査の必要性(有用性)を示してきましたが、実はこの二つは究極的には昇段審査がなくてもできます。

 例えば、自分の実力を冷静に分析する力があって、しかも目の前の目標が特になくても、上の段位に相当する実力を身につける努力を怠らずにできる人なら必要ありません。

 また、どんな稽古の時でも、常に本気で、一切の妥協や遊びなく、「この一太刀で生きるか死ぬか」という気位で稽古ができる人には必要ありません。

 しかし私にはどうしてもそれができないということが分かったのです。

 努力しなきゃとは思うものの、「忙しい」とか「家庭が」とか言い訳をつけて怠けてしまう自分がいたのです。本気で稽古をしているつもりですが、どこかで気が抜けたり、納得のいく稽古ができていない自分がいたのです。

 そんな自分にとっては「昇段」は唯一といってよいほどのモチベーションです。まだまだ心が弱く、修行道半ばの自分だからこそ、「次の昇段に向けて」という目標が必要なのだと思います。

 おそらく、この記事をご覧になっている方の中にも同じ気持ちの方がいらっしゃるのではないでしょうか?

 少なくとも私にとっては、以上三つの理由から「昇段審査」はとても重要でなくてはならないモノです。

まとめ

 今回は、

 剣道の昇段審査不要論者へ物申す

 について解説しました。 

 ポイントは、極めて客観的な尺度「本気対本気」、「弱い自分だからこそ必要となります 

 一応言っておきますが、「昇段審査」には多大な「価値」がありますが、「段位」そのものの権威にしがみつく必要はないと思っています。かつて私の恩師は日本の剣道界のために九段を返上しました。八段の先生方が努力しなくなったことが原因だと聞いたことがあります。つまり、何段になろうとも、「人間形成」の完成に向けて努力することそのものが素晴らしいということなのだろうと思います。

 最後まで読んでいただきありがとうございます。次回もお楽しみに。 

 それでは。 

 

 

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