こんにちは。
私は剣道ブロガーのKENDO KAWANOと申します。
脱サラして剣道ブロガー兼YouTuber(現在準備中)に転身しました。
詳しくはプロフィールをご覧ください。
今回は、
「剣道で身につけるべき武士道的精神は現代に不要なものか?」
というテーマを取り上げていきます。
剣道具職人のいる店 剣道防具工房「源」
剣道で身につけるべき武士道的精神は現代に不要なものか?
私は、武士道 や葉隠 にあるような「武士道的精神(価値観)」を好んでいます。
しかし正直なところ、現在の社会の仕組みや価値観と日本人が育んできた「武士道的精神」には相容れないところも多々あるように感じます。
今回の記事では、私の個人的な考え方として、現代の世の中に「武士道的精神」は果たして必要なのかについて述べていきたいと思います。
項目は3つです。
・合理主義との相性
・「文化」は「無駄」ともいえる?
・「合理主義」のうえに「武士道的精神」
順に解説します。
合理主義との相性
私が思うには、合理主義や個人主義の考え方と「武士道的精神」の相性はよくありません。
なぜなら「武士道的精神」とは日本人が長い年月で育んできた、「文化」に他ならないからです。
他の事例に置きかえた方が分かりやすいかもしれません。
例えばムスリム(イスラーム)の女性が、スポーツの国際大会などで頭に布(ヒジャブというらしいです)を巻いた状態で走ったり、競技をしたりしている場面を見かけたことがある人は多いと思います。
多くの日本人のように、ムスリムでない人々にとってこの出来事は、競技上とても不合理であり、大きなマイナスに感じることでしょう。
また彼らムスリムはラマダンの時期になると、日の出から日没までの間は飲食をしません。よくヨーロッパのサッカーリーグでプレーするムスリムの選手がこのことで議論を呼んでいますが、他宗教や無宗教の人間からすれば理解することは容易ではありません。
しかしこれらのことは彼らにとって「宗教」なのであって、長い時間をかけて育まれた「文化」なのです。つまりそれは、自分の人生観や生き方に関わってくる非常にナイーブな問題であり、スポーツという人生の一場面の娯楽に過ぎないテーマの何歩も先にある大きなテーマなのです。
私の感覚では、インドのカースト制度や日本の武士道的精神も同じような部類に分類されるものではないかと思っています。
武士道的精神は「宗教」ではない。という指摘がありそうですが、私はそうは思いません。確かに特定の「教祖」の存在やきちんとした「教義」が規定されているわけではありません。しかし武士道の考え方の根底には日本人が古来から信仰してきた「神道」や「儒教」、「仏教」の思想が大きく影響していることは紛れもない事実です。
故に、私は日本人にとって武士道的精神とは、自分の人生観や生き方に関わる「宗教」に近い存在であると考えています。
そして「宗教」や「文化」とは、一見不合理に見えたり、感じたりすることでさえも、必要である場合が多々存在するものなのです。
一方で、合理主義の考え方はどのような場面で発揮されるべきかと考えたところ、例えば「企業の収益の最大化」や「行政改革」などの場面で粛々と取られるべき考え方なのではないでしょうか。
「収益の最大化のために合理的な人事体系やシステムを導入する」
「人々の暮らしや社会がよりよくなるように無駄を徹底的に排除して必要なものだけを残す」
まさに日本中の企業や今の内閣が取り組もうとしていることです。
しかし、そこに落とし穴があるようにも感じます。例えば「教育」にしても「スポーツ」にしても行政の枠組みから逃れることはできません。何が何でも合理化合理化ということだけではいけない部分も出てくるのです。
合理的に考えるのならば中学校で武道を必修化する必要はあるのか?そこに予算をまわす必要があるのか?という考え方にもなりえます。
スポーツ振興のために、オリンピック競技だけに絞って予算を配分すればその分効果はあがるかもしれませんが、その他のスポーツや武道団体へは1円の補助金も出ないということになればマイナースポーツは確実に衰退します。
つまり、合理化は必要な考え方ではあるものの、「文化」や「宗教」との相性は必ずしも良いとは言えず、合理的に物事を進めていく中でも、「文化」や「宗教」に根差した価値判断が必要になるということなのです。
日本の場合はそこに「武士道的精神」があってしかるべきと私は考えます。
「文化」は「無駄」ともいえる?
ここでもう少し、なぜ「宗教」や「文化」と「合理主義」の相性が悪いのかについて考えていきます。
日本の「武士道」は江戸時代に発展を遂げました。武士そのものは平安時代の末期から登場したとされていますが、なぜ「武士道」は江戸時代に発展したのでしょうか。
それはおそらく時代背景に起因する問題ではないでしょうか。
平安時代の末期から鎌倉時代、室町時代、それに続く安土・桃山時代といえば、源平合戦や元寇、応仁の乱、戦国時代の合戦という風に戦に絶えない時代ということもできます。
もちろんずっと戦をしていたわけではないでしょうが、組織としても江戸時代のように強力な幕府のもとで全国津々浦々までオーガナイズされていたというわけではなさそうです。
それに引き換え、17世紀の江戸幕府成立以降は200年超の間、大きな戦乱もなく、また外国勢力の侵入もなく天下泰平の世が到来したのです。
そしてその平和な時代に「武士道」は発展を遂げていきました。
戦のない、平穏な年月の中で、単なる武芸であった剣術は「武士道」へと昇華されていったというわけです。
少し話が長くなりましたが、つまり、「武士道」は戦のない武士にとっては自分たちの本来的業務に余裕が生じた時期に発展を遂げたと考えられるのです。
「余裕が生じた時間」=「暇」と定義したとすれば、「暇」な時間があったからこそ、「武士道」が発展したといっても良いということになります。
一方で、江戸時代が戦乱の世であったならば、「敵を倒すための合理的な手段」つまり「兵法」や「剣術」は発達したでしょうが、それを阻害する可能性がある「武士道」的な形式ばった所作や思想、価値観は生まれることはなかったのではないでしょうか。
そういった意味で、「文化」である「武士道的精神」と「合理主義」の相性は良いとは思えない部分があります。
「合理主義」のうえに「武士道的精神」
繰り返しになりますが、突き詰めれば「合理主義」と「武士道的精神」は相性がよくありません。
しかし大切なことは「合理主義」的判断の根底に「武士道的精神」を持ち合わせておくということなのではないでしょうか。
今流行りの話題を例にすれば、
「行政改革の一環として行政文書から「ハンコ」の押印をなくす」
ことと並行して、
「日本の伝統文化(伝来は中国)である「ハンコ文化」を保護していく」
という判断が求められるのではないでしょうか。
前者だけを主張すれば「文化の破壊」を招きます。後者だけを主張すれば「無駄や遅れ」による不利益が生じます。
「大切にしなければならないものは何か?」
この根底にそれぞれの「武士道的精神」を持っているか持っていないかによって、ひとつの事象に対するモノの考え方が決まってくるのだと思います。
したがって私の場合は、「合理主義」のうえに「武士道的精神」をもって何事も論ずるようにということを心がけています。
まとめ
今回は、
「剣道で身につけるべき武士道的精神は現代に不要なものか?」
について解説しました。
ポイントは、「合理主義との相性」、「「文化」は「無駄」ともいえる?」、「「合理主義」のうえに「武士道的精神」」となります。
これはあくまでも私の一個人としての見解ですし、歴史的な経緯についても間違いがあるかもしれませんが悪しからず。
また文中では「武士道的精神」の中身について、あえて明言しませんでした。
理由は、そもそも表現することが難しいものですし、読者の方々の日々の修行の中で体得しているそれぞれの考えがあると思ったからです。
いずれにせよ、グローバルな世界の中で日本の役割、剣道の役割というものを考えていったときに、正解は何にせよ「武士道的精神」が重要なものになることは私自身は確信しています。
自分の目指すべき人間像に少しでも近づけるように、日々「武士道的精神」をアップグレードしながらこれからも頑張っていこうと思っています。
最後まで読んでいただきありがとうございます。次回もお楽しみに。
それでは。
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