剣道の到達点「木鶏」とは?を解説します【短編小説風】

鶏 剣道

 

こんにちは。

私は剣道ブロガーのKENDO KAWANOと申します。

脱サラして剣道ブロガー兼Youtuber(現在準備中)に転身しました。

詳しくはプロフィールをご覧ください。

 

 

今回は短編記事になります。

「剣道の到達点「木鶏」とは?

について、取り上げていきます。

 

 

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剣道の到達点「木鶏」とは?

 学生時代のある日の話です。

 稽古が終わって静坐をして、恩師からの講話が始まります。講話が始まるとすぐに、

 「君たち、後ろを見てみなさい」

 と言われ約50人の部員が一同後ろを振り向くと、道場の恩師から向かって正面の隅の方(下座の壁際)に、ある部員の竹刀袋が立てかけられていました。私はその時下級生だったのでとっさに、

 「しまった。稽古中に壁に竹刀袋を立てかけているとは何事だと叱られる(学生時代は無駄に下級生が気を張っているため粗相があると全て自分たちのせいだと思い込む風潮があったのです)」

 と思ったのですが、恩師の口からは意外な言葉が発せられました。

 「あの竹刀袋に良い言葉が書かれているなぁ」

 ご存知の通り、竹刀袋にはよく「四文字熟語」だとか「為になる言葉」や「部訓」などが書かれているケースがあります。手拭いと竹刀袋にそういった言葉が並ぶというのは剣道あるあるですね。その時、ある部員が壁に立てかけていた竹刀袋には、

 「木鶏」

 と書かれていました。私は毎日その竹刀袋を目にしていましたし、「木鶏」という文字も目に入っていましたが、恥ずかしながらその時はあまり詳しい意味も知らなかったですし、正直に言って興味を持って竹刀袋を見ていなかったので何とも思っていませんでした。

 恩師からの言葉が続きます。

 「「木鶏」の意味を知っているか?」

 部員一同「シーン…」

 「「木鶏」は中国の故事から生まれた言葉で、闘鶏の名人が王に鶏を預けられて……」

 

 「木鶏」についての説明はWikipediaを参照させていただきます。

紀悄子に鶏を預けた王は、10日ほど経過した時点で仕上がり具合について下問する。すると紀悄子は、 『まだ空威張りして闘争心があるからいけません』 と答える。

更に10日ほど経過して再度王が下問すると 『まだいけません。他の闘鶏の声や姿を見ただけでいきり立ってしまいます』  と答える。

更に10日経過したが、 『目を怒らせて己の強さを誇示しているから話になりません』 と答える。

さらに10日経過して王が下問すると 『もう良いでしょう。他の闘鶏が鳴いても、全く相手にしません。まるで木鶏のように泰然自若としています。その徳の前に、かなう闘鶏はいないでしょう』 と答えた。

上記の故事で荘子は道に則した人物の隠喩として木鶏を描いており、真人(道を体得した人物)は他者に惑わされること無く、鎮座しているだけで衆人の範となるとしている。

Wikipedia「木鶏」より抜粋して引用

 と詳しく解説をしてくださいました。私は、大学生にもなって、これくらいの学がなければ恥ずかしいなぁと思いながらも、なるほど剣道にも通じる精神のような気がするなぁなどと思いを巡らせていると、恩師の言葉が更に続きます。

 「私の師匠の持田先生はこうおっしゃられた。」

 昭和の剣聖といわれる持田盛二先生は恩師の恩師に当たります。

 「剣道は先ず技に習熟し、次に気を練り上げ、更に間合が明るくなり、最後は案山子のようにただ独り立っているだけでよい」

 「案山子だよ。わかるかな。田んぼにある案山子。ただ立っているだけだ。最後の境地というものはそういうものだ。しかし我々凡人にはなかなか難しいな。」

 そう言いながらニヤリと不敵な笑みをたたえる恩師の顔がすごく印象的でした。全剣連の副会長を務め、我々からすれば雲の上の存在に思える恩師が自分のことを凡人と評するのは謙遜にも思えましたが、そんな恩師が尊敬してやまない持田先生の表した「案山子の境地」はいみじくも「木鶏」の故事と見事に重なるように思えます。

 達観して全てを見透かすことができるようになった人物には、相手の動きや行動が手に取るようにわかる(見える)ので、自分からビクビクしたり虚勢を張ったりする必要などなく、ただ威風堂々と鎮座していればよいということなのでしょう。

 恩師はそのような話をしてくださったり、また剣道の技術指導も綿密にしてくださいました。「木鶏」の故事の話、持田先生の「案山子」の話をしてくださった次の稽古で恩師から言われた言葉、

 「左手が動いたら自分から降参しなさい。」

 という言葉はいつもより私の胸に深く響きました。

 剣道の指導をする者は、単に技術に偏る指導だけではいけません。また、単に理想ばかりを唱えるだけでもいけません。やはり人に何かを伝えるには、伝えるなりのベストな方法があるのです。私の恩師は図らずも(計算ずくだったのかもしれませんが)私を熱狂の渦に巻き込み、剣道に(恩師に)傾倒させることに成功しました。

 レベルの違いはあるにせよ、剣道指導に携わる限りは、私も恩師のように人を剣道に熱狂させることができるような指導者になりたいと思うものです。

 そして、剣道修行者としては最終到達点ともいえる「木鶏」や「案山子」の境地に到達することができるように日々精進していきたいと考えます。

まとめ

 今回は、

 剣道の到達点「木鶏」とは?

 について解説しました。 

 ポイントは、「木鶏は中国の故事成語」「持田先生は案山子と表した」です。 

 剣道に熟達するということは、単に一心不乱に稽古をするということだけではないと思います。「温故知新」という言葉があるように、先人の残した言葉や事跡を顧みて自分の参考にしたり、勉強したりすることが極めて重要なのではないかと思います。そういう意味で私にとって「木鶏」という言葉は大変よい勉強になりましたし、人にモチベーションを与える指導方法についての参考にもなりました。皆さんも剣道の修行をする際に、稽古稽古稽古と一辺倒にならずに時には立ち止まって先人の知恵を借りることも考えてみてはどうでしょうか。

 最後まで読んでいただきありがとうございます。次回もお楽しみに。 

 それでは。 

 

 

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